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「忌明け50日、神社境内に入ってはならぬ」とは何とも解せん! [公共]

 9月13日に氏神様の大祭がある。1年で一番大きな行事であり、小生は神社総代長として事前準備から当日の大役の務めなど随分と責任ある仕事をせねばならない。
 ところが、おふくろが8月8日に死に、忌明け50日、神社境内に入ってはならぬ(当地の風習)となった。でも、大祭協議会の全体最終打ち合わせを8月22日に社務所で予定しており、会場を変更する面倒くささから横着して予定通り神社境内にある社務所で開催したところである。もっとも、鳥居をくぐるのは避け、社務所脇の荷物搬入口から入ることにしたが。
 その協議会において、小生は当日のみならず事前準備で神社境内に入るのも避けるべしとの結論が出て、総代長職務代理を前総代長(今年度は平総代)さんに勤めてもらうことになり、小生は陰で少々手伝うだけとなった。
 小生は総代長としての任務を放棄させられたのである。
 こんなバカな話があるか!である。

 なぜならば、神道の死生観は次のとおり忌み嫌うものではないからだ。
 「人はみな神の子であり、神のはからいによって母の胎内に宿り、この世に生まれ、この世での役割を終えると神々の住まう世界へ帰り、子孫たちを見守る守護神となる。」
 つまり、死は「神の世にお戻りなる」敬虔なものであり、180度意味が違うのである。
 本来ならば、通夜も葬儀も神社の拝殿で行わねば、死んだ人は神々の住まう世界へすんなりとは帰れないであろう。
 それが、どうだ。棺桶をそんな所へ運び込んだら、皆から「罰当たりめ!」と怒鳴られるに決まっている。また、死んだ人が出たら、その家の神棚を白い布で目隠しせねばならない風習となっている。その家の神棚にいらっしゃる守護神は、「死んだお前なんぞ見たくもない、来るな!」と言わんばかりだ。
 死んだ人がこのように神に毛嫌いされたら、とてもじゃないが神の世に戻れそうにないし、守護神にもなれそうにない。
 
 ここまでは死んだ人の取り扱いだが、ピンピン生きている家族までが、「忌明けまでは境内に入るな、神棚は目隠ししておけ」と、忌み嫌われるとは何事だ。家族に死霊が乗り移っており、神は、大の死霊嫌いで「寄るな!来るな!近寄るな!」と言っておられるのであろうか。
 
 小生は、日本人が太古の昔につくりあげた八百万神が好きだ。「好きだ」なんて言うと不謹慎だとまたまた非難を浴びようが、神社にお参りすると真摯な気持ちになれ、何か願い事を頼むのではなくて、今の自分が今の家族がこのように暮らしていられることに、ただひたすら感謝することができるのである。神様のお陰だと。
 だから、おふくろがたった10日間寝込んだだけで何の苦しみもなく大往生したことに対して、神様への報告と感謝のため、氏神様にも神棚の守護神様にもお参りしたいのだが、「神はお前を嫌っているから、参ることまかりならん。」とのことで、小生の希望は叶わぬのである。

 おかしい、どこかおかしい。神はもっと身近な存在であり、当然にして神は死を喜んで受け入れてくれる存在であるはずだ。

 「忌明け50日、神社境内に入ってはならぬ」が当地の風習だが、通常は「忌明け50日、神社に参拝するのは控える」ということのようだ。参拝するには、境内の入り口にある鳥居の前で軽く頭を下げ、境内に入るべしであり、ここから既に参拝が始まっているのだから、境内に入ってはならぬと当地では言われるのであろう。
 そこで、少々ネット検索し、こうした風習はどのようにして決められたのか調べてみた。

 古くは、奈良時代の「養老律令」、江戸時代の「服忌令」などに見ら、 現在の服忌期間の基になったものは明治7年太政官布告「服忌令」のようで、それを引き継いで戦後は神社本庁に指針のようなものがあるようだ。
 神社本庁のHPを見ても何も書かれていなかったが、ある神社のサイトによると、それは次のようなものとのこと。
 忌中(きちゅう)
 故人の死を悼み、御霊(みたま)を鎮める期間
 神事や結婚式、公の行事への出席や派手な行いを控え、慎んだ生活を送ります。
お祝い事やお宮参りなどの神事は忌明け後に延期します)
※同居家族の場合≪忌明け≫は50日(仏教では49日)
※忌服期間の目安
  親・配偶者:50日、兄弟姉妹・子供:20日、祖父母:30日、おじ・おば:20日、いとこ・甥・姪:3日

 別のある神社のサイトで、一定期間参拝してはならない理由として、次のように書かれている。
 「死」というのは穢れ(ケガレ)でもありますから、死に接してケガレの残っている間は、神社へ参拝しない、神棚も拝まないのです。神前へケガレを持ち込む事はもっともしてはいけないことですから。
 またケガレが他人へうつらないように全てのことを控えめに、慎むということになります。
 神道では、50日間の忌の後には、清め祓いをおこなって、ケガレをとりのぞきます。それ以降は神社への参拝等も通常とおりおこなえます。…
 ケガレとは罪や穢れというように、不潔、不浄というような意味です。ニュアンス的に。漢字でかくと同じになりますが汚れ(よごれ)と汚れ(けがれ)の違いは、ケガレは物理的によごれていることでなく、内面、精神面などの不潔、不浄をいうものです。
 神道、神社は清浄をもっとも大切にしますから不潔、不浄は徹底的に祓い清めます。神社では何かするときには必ずお祓いをしますが、神様にお供えする物や、神様の前に行く人に、不浄なもの、あるいはケガレのない状態でなければいけないからです。
 たとえば神主にも祭典が近づいてくると禊(みそぎ)潔斎(けっさい)があります。神社に篭もり外界との接触を絶ち、食べるものを制限したり、水や塩で身を清めたり、いろいろあります。
 神社へお参りするとき、手水舎で参拝前に手や口をすすぐのは禊祓い(みそぎ)の簡易版ってことです。…
 Q:子供を産んだばかりの女性はケガレていると言われる神社がありました。これはなぜか?
 A:死のケガレと同様に、血のケガレというものもあります。これは血そのものでなく「出血」のことです。…出産にともない出血していますから、産後間もない女性が参拝を遠慮するよう言われるのは、身内がなくなったあとしばらく遠慮するのと同じ理由です。…

 以上のような解説である。なお、当然のことであるが、残念ながら小生の疑問を解消してくれるような解説は見つからなかった。
 では、なぜにかような、あまりに神経質すぎる「穢れ忌避」を神社が徹底的に行うのか。
 これは、現在の日本人の「清潔文化」との関わりが深いことが想起される。
 もう8年以上も前のことであるが、小生の友人N君が著した社会学論文集(単行本にしたら約1300ページ)の中に「穢れ思想」に関した小論文があることを思い出した。
 表題は「3K職場を忌避する日本人」であり、その論点は違うが、その中で井沢元彦氏の著「逆説の日本史」から「穢れ思想」に関しての引用があり、それを部分的に孫引きして紹介しよう。

…「ケガレ」という思想が日本人にはある。…「罪も禍(わざわい)も過(あやまち)も皆同じ穢(けが)れで、悪霊の仕業と考える」-これがケガレ思想のエッセンスだ。これは日本史そして日本人を動かす極めて重要な原理である。…われわれは、他人が使った箸や茶碗に、その人独特の「垢(あか)」のようなものを感じている。これがケガレである。…ケガレ忌避…も、一種の信仰であり宗教だ。…平城京(奈良)に一旦都が落ち着くまでの、たび重なる遷都の理由は、…もちろん、これもケガレのせいだ。死穢(しえ・死のケガレ)を嫌ったのである。…
 そのことを念頭におけば、日本人が割箸を使うことの理由もわかるはずだ。…われわれ日本人は、人が一度使った箸は、洗っても何となく「キタナイ」と思うからだ。すなわちケガレを感じるからだ。…
…日本人は…今でもケガレというものを極端に嫌う「信仰」があり、特に古代・中世において最も嫌われたケガレは…「死穢」であったことだ。…そして、この死穢を嫌うあまり、日常的に死穢に触れる職業は差別の対象となってしまった、という事実もある。
…警察も「罪」という死穢に次いで忌み嫌われるケガレに、日常的に触れざるを得ないうえ、昔の警察は今と違って処刑部門もあるので、当然「罪人の死穢」という「二大ケガレ」に触れざるを得なくなる。こう考えてくると、武士政権以前の日本つまり平安時代の律令政府が、「なぜ公式の軍隊を持たなかったのか」「なぜ死刑制度を廃止したのか」という、他の国には見られない大きな特徴を持っていたことも理解できるはずだ。その最大の理由はケガレ思想なのである。…
…経済的に豊かになると、ハングリーな部分が消え、代わりにケガレ思想が頭をもたげてくる。中国には「衣食足りて礼節を知る」という言葉があるが、日本は「衣食足りてケガレを嫌う」のである。たとえば、日本人は「死穢」を最も嫌う。だから、飛鳥・奈良時代は日本が全体として貧しい時代であったにもかかわらず、天皇一代で都を「使い捨て」た。
…文字どおり「平安」な時代になると、天皇も公家も一切武器を手にしなくなり、それどころか国を守る軍隊さえ、「ケガレ」たものとして廃止してしまう。宮中に鳥の死骸が落ちていたので大騒ぎをして、天皇以下キヨメ(ハライ・ミソギ)を行ったというのは、この時代のことである。…ケガレ忌避信仰があるから、「血」や「死」に対する異常なまでの潔癖症となるのである。
 そのために、彼等は政治という「ケガレ仕事」から、次第に遠ざかることとなる。実際行なうのは「儀式」と「歌詠(歌を詠むこと)」だけとなる。…自分たちの権力抗争さえも、自らは「手を汚さず」武士たちを雇って代理戦争させるのだ。…
…日本史における、ケガレ思想の最大の影響は、現実の政治を「ケガレ仕事」と考えるために、それを「不浄役人」に扱わせる、という政治形態ができることだ。これが日本の古代と中世を分けたのである。
…今は平和な時代だから、…若い世代は過度の潔癖症に走る。かつての平安時代の朝廷人がそうであったように。
 しかし、こんな事を続けていては、ますます世界との亀裂は深まるばかりだ。早い話が、潔癖症の若い世代は、外国人を「不潔」だと考えるようになるはずである。外国では、そんな「抗菌消毒」はしていないからだ。…国際的な水準では不潔でもなんでもないものを「不潔」と考えるような人間は、…「不潔な国々」との距離を置くようになる。
 言うまでもなく、これは「差別」の第一歩だ。
 だから、いま日本にとって急務なのは、「耐不潔」教育である。そんな「抗菌消毒」などしなくても人間は充分生きていけることを、初等・中等教育の場でしっかり教えるべきなのだ。そのためには生物学的アプローチもさることながら、そういう「潔癖症候群」の原因はケガレ思想にあり、日本特有の差別の根源であることを、歴史的な知識としてきちんと教えるべきなのである。(孫引きここまで)

 いかがでしょうか。
 その思想は崇高なる神道ではあるが、かようにして生じたケガレ信仰によって極端にねじ曲げられてしまっているのである。
 これでは、八百万神に申し訳が立たないであろう。
 小生思うに、八百万神のお考えは「人間に一切のケガレなし」である。
 こうやって整理してくると、ますます腹たつ「忌明け50日、神社境内に入ってはならぬ」である。

 参考までに、小生の「日本の神々」の捉え方は、次のとおりである。少々長いですが、お読みいただければ幸いです。
(論文「新・学問のすすめ」(平成20年4月) 第3章:思考改革は対称性の論理にあり 第4節:日本社会における対称性の思考 より抜粋)
 古来より日本人は、動植物はじめ自然物も神であり、多くの神々と一体になって平和な共同体づくりをするという「対称性の論理」のもとに、人と自然が共生を図り、豊葦原瑞穂国をつくってきたのである。そして、自然に対する畏敬の念をずっと持ち続けてきた。こうした文化を残している先進国は唯一日本だけである。
 世界には、先進諸外国をはじめ、唯一神を信仰する文化が圧倒的に多い。そうした文化は、唯一神が他の神々を皆殺しにしてしまったがゆえに、個々の自然物そのもの一つ一つに対する畏敬の念は生まれようがない。何か困ったら、手の届きそうもない唯一神にすがるしかないのである。その唯一神信仰の質が悪いところは、人間を生き物の上に置いてしまったことである。
 つまり、自然との共生を拒否したのである。なお、このことについては、同情の余地はある。激しい旱魃などの自然現象に度々苦しめられれば、大自然を恨む気持ちになってしまうからである。
 そして、旱魃を経験する中で大衆化した仏教においても、その傾向が見られる。仏を唯一神にし、ただ念仏をとなえれば救われるとするのは、全くの同類であるからだ。拝む対象は仏像の数だけいろいろあるが、それは唯一神の仏が姿を変えて登場しただけのことであり、神の子イエスと同じである。
 こうした信仰においては、自分と身近な者だけが救われればよいのであって、人と自然の共生は眼中になく、決して自然との共生は成り立ち得ないのである。
 これらの信仰は、唯一神(仏)に全てを任せる他力本願であり、自らが考えることを放棄し、ただひたすらすがるのみという形をとる。ここには、人の思考が働く余地が全くない。唯一神(仏)によって、人は人のこころを喪失させられているからである。
 日本は違う。世界にまれにみる豊かな自然環境が変わることなく保ち続けられたがゆえに、八百万の神を信ずる多神教の世界でずっと暮らしてこられた。こうした世界では、「信仰」とは、神仏にすがるのではなく、単に神仏は存在するという意識があるだけである。
 従って、ことあるごとに、あるときは山の神に、あるときは川の神に、そして、あるときは仏に対して、自分たちがどう立ち振る舞ったらよいのかを、神仏と一体になって考えてこられたのである。 
 そうして得られた結論が、日本古来の独自の神話であり、民話であり、言い伝えである。当然にして地域の自然環境の違いにより、内容が少しずつ異なったものとなり、また、開発に伴う環境の変化に合わせて内容が変化してきているのである。
 そして、あらゆる神仏を敬いつつ、豊穣の祭などを行って、神仏とともに喜びを分かち合うのである。神仏は近寄りがたい存在ではなく、ごく身近な存在であった。こうして、喜びも悲しみも神仏と共有できる、こころ豊かな文化が育まれたのである。
 このように、日本の宗教文化は先進諸外国の民族と全く異なる。極端に言えば、神仏と自己の同居である。
 神仏と自己の同居については、バラモン教の「梵我一如」の思想と共通するものの、これは、人間の理解を超えるほどに両者の距離が離れているから、同一視できない。これよりも、アマゾン下流域を放浪するグアラニ族の思想である「人間は確かに人間であるが、同時に人間にとっての他なるもの、すなわち神でもある。神ー人間、人間ー神である。」というものに、より近いものである。
 日本では、神仏は超越者ではなく、特に、八百万の神々は神社の拝殿という手が届く所にいらっしゃるのであるから、自然の摂理というものも、間近な存在の神々と一緒になって思考し、十分に認識し得たのである。こうして「対称性の思考」が育まれてきたのである。
 この日本文化の思想の本元であえる「対称性の思考」や「対称性の論理」を、今一度復活させる必要を痛感する。
 小生が思うに、そうした認識の集合が大自然の摂理であって、大自然の真理であり、これは、一神教の世界の人々のように人の知恵では到底分かり得ないものと考えるのではなく、多神教の世界の人々はその思考力でもってその多くを知る得るというスタンスを取ってきたのであろう。

野菜泥棒の被害に遭うも“腹たち”が生ぜず [事件]

 5月21日に野菜泥棒の被害に遭った。2年目になったニンニク栽培。本格的に栽培を始め、6月になったら順次収穫しようと考えていた。
 そのニンニクの過半が盗まれてしまったのである。今年の1、2月頃に、「ニンニクは高価につき、野菜泥棒の被害にけっこう遭う」という話を地元の人から聞き、少々心配していたのだが、まさか、である。
 畑に行ったとき、“あるべき所にあるべき物がない!”。これを見知ったときには、“ああっ!!”となったのだが、なぜか怒りや腹たちは湧いてこず、全身の力が抜けて“ガックリ”、意気消沈といった状態であった。
 ここで怒りや腹たちが湧いてこなかったのは、なぜだろう?
 1、2割は収穫しておいたし、無臭ニンニクとマイルド(無臭に近い)ニンニクは無被害であったからだろうか。でも、本命と考えていた2品種は残り全部を盗まれてしまったし、まだ青々としていたジャンボニンニクは全く収穫しておらず、100%が盗まれた。
 あれから2か月経つが、面白くないという気持ちは残っているものの、いまだ怒りや腹たちは湧いてこない。不思議だ。今年の2月には他の方の被害に腹がたったのに。
 この心境に変化、きっと心境の変化だと思うのだが、その理由を強いて挙げれば、毎日楽しかったことを思い出し、別立てブログで「一日一楽日記」を綴るのが習慣になっている、これしか考えられないような気がする。
 また、「怒ってはいけない。怒ったら自分が損するだけ。」ということも肝に銘じようとしているから、ここのところ自分が怒った記憶もない。
 「気の持ちよう」が“進歩”した、これが本当なら、実に有り難いことである。

他人事だが野菜泥棒には腹がたつ [事件]

 うちの畑は滅多に野菜泥棒に狙われないが、多くの農家が被害を大なり小なり受けている。その嘆きを聞くこと度々。なかにはとんでもない泥棒もいる。
 うちでは、過去に里芋の種をごっそり盗まれたことがある。形のいい、やや大きめの小芋を選んで畑に直植えしておいた。ところが何日経っても全然芽吹かない。どうしたものかと植えつけた所を掘ってみると芋がないのである。腐ったわけでもない。1畝ごっそり持って行かれた。これは、植付けしているところを見ていた奴が盗んだのであろう。
 お隣さんの場合は、道路側にエンドウ(絹さや)の一部を種取り用に残しておかれたのだが、そろそろ種取りしようと思ったら、全部なくなってしまっていたとのこと。乾いた豆を取っていってどうするんだろう?
 昨日、昔勤めていた職場の先輩が久し振りに訪ねてくれた。彼は退職後、野菜作りにはまり、いろいろな野菜を栽培してスーパー直売場に出荷している。けっこう広い面積の畑作である。
 その彼の所も、かなり野菜泥棒にやられているようであるが、うち辺りのこそ泥と違って、専門業者のようだ。ジャガイモ全部、軽トラ一杯、100kgといった大掛かりな被害であったり、ネギ1畝50m全部盗まれるといったもので、しょげておられた。
 以来、畑の回りに網を張ることにされたそうだが、入ろうと思えば入れるから気休めにしかならないと言っておられた。うちの辺りの専業農家の方の中には、そうしておられる所が目立つ。
 けっこう効果があるかもしれないが、うちの畑は細長いから網を張るのはとても無理な話だ。
 さて、今年、うちが心配しているのは、ニンニクである。種球の購入に8千円ほど投資し、広幅の1畝に作付けしている。道路からよく見える場所だ。ところで、最近聞いたのだが、1kmほど離れた畑の方が、一昨年ニンニクを全部やられてしまったとのこと。
 昨年10月に本格栽培しようと、6種類のニンニクを植えつけ、施肥、刻み藁敷き、籾殻振り掛け、草引きと手を掛けてきたニンニクであり、6月の収穫を楽しみにしている。これがゴッソリ盗まれたら、…ゾッとする。

健康診断で高血圧をクリアする技 [医療制度]

 高血圧は健康で長生きできます。血圧の薬は飲んじゃダメ。中高年は180でも大丈夫。
 こう題して別立てブログで記事を書いているのですが、このことはけっこう多くの方がご存知でもあります。

 しかし、不条理のこの世の中ですから、メタボ健診で引っかかると何かと不利になり、早急に現行の基準値以下に抑え込まねはならない事情を抱えた方も多いかと存じます。
 何とも腹立たしい…メタボ健診なぞクソ食らえ、俺は受けん!
 そういう方もみえますが、これでは出世は望めませんから、何か手を打たねば、となります。

 当店では、そうした方にお勧めし、喜ばれているのが漢方新薬の丹参(たんじん)製剤です。
 これは、即効性があるようですし、毎日1か月飲むと数値が20前後低下することが臨床実験で明らかになっています。
 現在5メーカーから発売され、品名は皆違いますが、配合成分・処方量とも全く同じです。(当店の取り扱いはJPS製薬のものです。)
 イスクラ産業 冠元顆粒
 小太郎漢方 環元清血飲
 クラシエ薬品 冠心逐オ丹(オは“オ血”のオという漢字)
 八ッ目製薬  冠源活血丸
 JPS製薬   冠源活血丸(製造元は八ッ目製薬)

 健康診断の予定日は1か月前には分かるでしょうから、この漢方新薬を飲んで基準値をクリアなさってはいかがでしょうか。
 ただし、規定量どおり1か月飲むと、1万2千円(税別)程度かかりますし、思ったほど血圧が下がらない場合もありますから、ご承知置きください。
 逆に、1週間飲むだけで血圧が20前後下がることもあります。中には1日でそうなる方も。
 
 この漢方新薬は、これといった副作用がなく(あるとすれば、大腸の血流が良くなって下痢気味に)、血流をグーンと良くし、血管の大掃除もしてくれますから、血圧が高めの方にもってこいです。
 この先、健康診断でお悩みの方にはお勧めしたい1品です。
 これでもって、腹だたしいメタボ検診 粉砕!!


12.21 ストレス解消の一方法「怒りは紙に書きなぐる」 [きっかけ]

 2013年10月2日に、このブログを立ち上げ、次のように書きました。
 表題:怒りは「紙に書いて」しっかり解消しよう
 小生とて、腹が立つことは度々あります。そうしたときは、このブログに殴り書きして(キーボードが壊れるぐらいに強く叩いて)ストレスを発散することにします。

 その後、ストレス解消のために書きなぐった記事はたったの数本。というのは、最近、腹を立てるだけ損、というのに気付いたからです。
 そんなわけで、このブログはしばし休止となり、ページトップに広告がデーンと座ったままになっていることが多くなりました。
 無理やり大して腹が立っていない記事を書いたりして広告を消す、なんてことをしています。

 今日も、広告を消すため記事を書いています。
 少々腹立たしいことがあったからです。
 2、3日前、小生のメインブログを見て、電話してきた方がありました。少々頭が変な方。自分の主張を長々と述べ、小生のブログにもそれを載せてほしいのか、単に自分の主張を聞いてほしいだけなのか、支離滅裂でまとまりのない話。
 長電話になりそうでイライラしてきて、自分の心臓の鼓動が高まるのが感じられます。そこで、「あなたは私にどうしてほしいのですか」と、つい強い口調で言い放ってしまいました。
 そしたら、〇〇のHPを見てください、で終わりましたから、ほっとしたのですが、電話を切った後で、このような些細なことで腹を立ててしまった自分はまだまだ未熟だなあ、と感じた次第。
 反省、反省。

8.6 笹井芳樹さんを自殺に追い込んだ日本社会 [事件]

 昨日、ネットで訃報が飛び込んできた。理化学研究所再生医療総合研究センター副センター長の笹井芳樹さん(52歳)が自殺されたというニュースだ。再生医療研究の分野で世界的な研究者であり、STAP細胞論文作成の中心人物・小保方春子研究ユニットリーダーの上司であり、その論文作成をリードし、補ったとされる。論文共著者に名を連ねる笹井さんの弁では「私が参加したのは最後の論文を書き上げる段階。生データを見る機会はなかった。」と弁明されているようだが、一方、STAP細胞の存在については「説得力ある反証は見い出せない」として、「存在は最も有力な仮説」と主張されていたようだ。
 STAP論文については、日本社会は、コピペを批判しまくり、捏造ではないかとまで言われ、徹底的に潰しにかかり、論文の取り下げまでさせてしまった。そうなれば、これは当然なことだが、小保方さんは精神的に限界まで追い詰められた。そして、共著者であり、小保方さんの上司という立場にある笹井さんも追い詰められ、副センター長の職を辞したいと言ってみえたようであるが、それもかなわず、重責に押し潰されて自ら命を断たれたのであろう。
 何ともお気の毒なことであり、これは、理化学研究所という組織に押し潰されてしまったと言えよう。理化学研究所は日本のトップレベルの自然科学研究機関であり、優秀な人材が目白押しだ。笹井さんもその一人であり、日本社会は惜しい人材を一人失ったことになる。
 自然科学の殿堂であったはずの理化学研究所は、今や、銭、銭、銭、これを全ての物差しにし、費用対効果でしか研究成果を見ない民間会社の研究所と同じレベルに成り下がっているのではなかろうか。
 真の学問(自然科学研究)は営利を追及しないで自由に気ままに行うものであり、そうであってこそ、学問は発展成長する。そうした方針に基づいて先端研究をしているのが理化学研究所ではなかったのか。
 株式会社日本国・付属研究機関・理化学研究所として、パテント料を稼いで独立採算(とまでは言わないがその方向)で研究資金を確保していこうとするようなシステムにいつ変わってしまったのか。
 笹井さんの自殺は、どうやら、このシステム変更の犠牲になったものと思われる。何とも痛ましい、というようり憤懣やるかたない強い憤りを感ずる。
 加えて、小保方さんの身が案ぜられる。彼女は、笹井さんの自殺の原因は自分にありとして、限りなく自分を責めるだろう。後追いなどとならないよう祈るばかりだ。

 さて、STAP論文で問題となったコピペと捏造であるが、まず、コピペがなぜ問題にされなければならないのか理解に苦しむ。小生も分厚い学術論文を今までに幾つか趣味的に書いた。(ただし非公表で、順次ブログ投稿している状態)。その論文は、奇抜なアイデアが頭に浮かび、それでもって新発見に至ったのだが、順序立てて理論構成し、十分に説明し尽くすには、既知の学問(他人の研究成果)の引用を多用せねばならない。つまり、コピペだらけだ。一応、出典を挙げておくが、孫引きが多く、全部を挙げるとなるとゴチャゴチャになってしまうから、意識的に出典を省略することも多い。
 なぜかというと、コピペは、単に、新たな研究成果を発表なさった方に敬意を表するだけのものであり、それに著作権があるとは到底思えないからだ。小生はそう思っている。学問、特に自然科学にあっては単に真理を発表しただけのことであって、この世に2つとない芸術作品を著作したものではない。例えていうと、アインシュタインの相対性理論は素晴らしいものであるが、この世に1つしかない芸術作品ではなくて、この世に1つしかない真理であるからして、その理論を誰がどんなふうに使っても良いのであり、いちいち“アインシュタイン殿のお書きになったあの部分をかくかくしかじか引用した”という断りは不要である。
 もっとも、学生が卒論の単位をとるために、自らは何ら研究をせずに、既存の学術論文の切り貼りだけで通そうとする輩が存在するであろうから、卒論審査に当たってはコピペはダメという基準が設けられてはいよう。卒論は勉強の一環だから、これはこれでいい。
 しかし、大学を卒業した研究者となれば、どれだけ勉強したかどうかは全く問われない。研究成果だけが重要であり、既知の学問をベース(それは当然にしてコピペであるが)にして、上積みした新発見を世に知らしめる、ただそれだけに意義がある。
 ここで、断っておくが、新発見という真理の発表だけが学術論文ではない。単なる仮説の発表であっても立派な学術論文だ。奇抜なアイデアを元にした仮説を発表し、それに興味を持った研究者が論証に成功すれば、それが真理となって、学問は大きく発展するのであるから。

 次に、データの捏造であるが、STAP論文に、もし、これがあったとしても、誰も思いつかなかった突飛もないアイデアに基づく仮説の発表(笹井さんは、そのようにおっしゃっておられたようだ)であり、これが実証されれば世紀の大発見となり、非常に価値のある研究発表として高く評価できよう。ところで、小保方さんは記者会見で「200回も実験に成功した」と言っておられたが、これは“捏造”と言う売り言葉に返した買い言葉であって、実際には成功したとしても僅かな回数であったことだろう。
 STAP論文は、その後の何かドロドロとしたわけの分からない力によって取り下げの憂き目をみたが、この論文は既に世界中に知れ渡ったのであり、新たに興味を持った研究者は、論文とはまた違った方法で実証実験をするのではなかろうか。
 さて、捏造に関して、これは本当に悪いことなのかどうかである。小生も論文(仮説)を著したとき、本筋と矛盾する枝葉末節に係わる事項については、ネグったり、一部捏造もした。そのような些細なことを一々取り上げていては仮説がいつまで経っても立てられないのである。何事にも例外はあるのであって、仮説が法則として真理となった暁には、その法則に対して、かくかくしかじかの例外があり、それはかくかくしかじかの原因による、ということが将来的に明らかになるであろうから、それはそれでいいのではなかろうか。
 もっとも、根幹に係わる主要部分に捏造があったとすると、その論文は体を成さないことになる。しかし、そうであっても科学者はそれをことさら問題にしないという。根っからの科学者を自認しておられる武田邦彦氏(中部大学)はブログで理由を示してそれを言っておられる。下記をクリックしてご覧いただけると幸いです。
 なぜ、科学者は「ウソ」を問題にしないのか?(1)小保方さんとの対話
 なぜ、科学者は「ウソ」を問題にしないのか?(2)「自然」と「新しいこと」の特徴

 ところで、根幹に係わる主要部分の大掛かりな捏造というと、CO2地球温暖化論文が有名である。今では世界中がそれを知っているとのことだが、唯一日本社会だけがそれを伏せているのである。
 それは、クライメートデート事件であるが、2009年11月に発覚した。発覚したのは、観測された過去の気温データの捏造であり、都合の悪いデータは恣意的に数値を足したり、気温低下が見られるとそれをひっくり返してプラスにしたりといった、科学者がこんなことをするのかという、とんでもない、信じられないようなことが平気で行われていたのである。
 これも、武田邦彦氏(中部大学)のブログに詳細が書かれているので、下記をクリックしてご覧いただけると幸いです。
 クライメートデート事件と専門家(1)ホッケースティック図
 クライメートデート事件と専門家(2)地球の気温そのもの
 ついに、アメリカの気温もインチキだった!

 日本社会は、今や体を成さなくなったホッケースティック図を、その昔はいざしらず、事件発覚後も金科玉条のごとく崇め奉り、やれCO2削減だ、省エネだ、そのための原発再稼動だ、と息巻いている。
 “捏造は正しい”と言わんばかりの振る舞いだ。不思議でならない日本という国。
 日本社会は、都合のいい捏造と都合の悪い捏造があるとして、捏造学術論文の位置付けを両極端に置き、一方を崇めて一方を叩くという、それも科学者が率先してこれを行い、政府・マスコミともに一体となって、それを国民に煽り立てているのである。
 どうしようもない日本社会である。これでは、若者は、ますます理工離れしてしまうし、早晩、日本という国の最大の特徴はウソで塗り固められた社会であることを知り、嫌気を感じ、気力を失い、自国に愛想を尽かすことだろう。
 世も末である。こんな社会に誰がした!
 そう叫びたいのだが、よくよく考えるに、そうしてしまったのは我が団塊世代であり、そういう小生の責任でもある。
 取りあえずは、怒りを“腹たち日記”にぶちまけたものの、冷静になって考えてみるに、自分でいかに責任を取るのか、その方法論を真面目に考えねばならない立場にいるのだが…。残念ながら、的確な処方箋がまだ書けないでいる。今のところ、“お前は何をやっているのだ!”というお叱りを甘んじて受けるしかない、お恥ずかしい状態にあります。

7.14 ストレス解消の一方法「怒りは紙に書きなぐる」は効果的ですが… [きっかけ]

 2013年10月2日に、このブログを立ち上げ、次のように書きました。 

 表題:怒りは「紙に書いて」しっかり解消しよう
 別立てブログ「薬屋のおやじのボヤキ」で、表題の記事を本日投稿しました。
 怒りにしろ何にしろ嫌なことは早く忘れるに限ります。その一番の方法は「紙に書く」ことだと教えられました。それを教えてくださったのが、「みやざき中央新聞」編集部の西畑良俊さん。(2013年9月16日号の「取材ノート」の記事)
 詳しくは、下記の記事をご覧ください。
    クリック怒りは「紙に書いて」しっかり解消しよう
 小生とて、腹が立つことは度々あります。そうしたときは、このブログに殴り書きして(キーボードが壊れるぐらいに強く叩いて)ストレスを発散することにします。
 ただし、これを読まれる方はたまったものではないでしょうから、公開記事は頭の部分に止め、その続きは非公開記事とさせていただきます。
(以上)

 その後、ストレス解消のために書きなぐった記事はたったの6本しかなく、うち、おふくろに対するものが4本で、最後の投稿は5月3日。
 ところで、最近、おふくろに対して腹が立たなくなりました。精々グチが少々出るだけといったところです。というのは、腹を立てるだけ損、というのに気付いたからです。
 これも、このブログを書いたことにより分かったのかもしれません。
 そんなわけで、このブログは、しばし休止となりそうです。
 ページトップに広告がデーンと座ったままになっていることを祈っている小生です。



5.3 おふくろ定番の仕事をいつになっても全くやろうとしない [おふくろ]

 店先で飾っているプランターの花が終われば、自宅へ戻し、用土はある程度まとめて天日で干し、再利用している。
 10日ほど前に、咲き終わったパンジーのプランター数個を片付け、ムシロに用土を広げて軒先に置いておいた。
 数日から1週間干せば、殺菌もされ、再利用できる。
 夕方には、おふくろが夜露に濡れないよう、倉庫に引きずっていって仕舞い込むのだが、翌日は天日に干そうとしない。
 朝なりお昼前に小生が自宅へ行ったときに倉庫から引っ張り出しておく。
 それが1週間ほど続き、もう干す必要がなくなった。
 あとは、篩いにかけて軽石様のものと培養土に分けるのだが、これは、ずっと前からおふくろの仕事にしている。
 しかし、全くやろうとしない。
 痺れを切らして、「今日、やってくれ」とメモを挟み込んでおいたが、無視された。
 2日前に女房がおかずを届けたとき、「カズ君(小生のこと)が篩いにかけるやろう」と言ったとのこと。
 何を言うかである。間もなく96歳のご老体とはいえ、どこも悪くないし、まだまだ体は動く。何もしなくなったらボケるだけだ。
 そこで、今日、「今日中に、やってくれ」と再びメモを挟んでおいた。そして、新たに処理する必要が生じたプランターの用土を別のムシロに広げておいた。
 夕方、家に行ってみると、ムシロ2枚とも倉庫に仕舞い込まれている。
 頭に来る~!
 いいかげんにやれ!
(5月14日追記)
 小生が朝ムシロを倉庫から引きずり出し、おふくろが夕方仕舞いこむ、毎日これの連続。
 おふくろは、前々日は「頭が痛い」、前日は「体の調子が悪い」とウソをつき、全くやろうとしない。
 とうとう根負けして本日自分で篩いにかけて仕舞いこむ。10分で終了。
 こんな簡単なこと、なんでやらんのだ。あの馬鹿野郎め!
 
 

4.18 夏野菜のポット苗づくりに一向に腰を上げない横着なおふくろに怒り心頭 [おふくろ]

 あと半月もすれば96歳になるおふくろ。一人住まいであるが、週に2回、小生が泊まりに行き、また、毎日顔を合わせるようにしている。悪い所はどこもなく、自分のことは自分でやれる五体満足なおふくろである。もっとも、それなりの体になり、庭先で歩くにも手押し車につかまっていないと不安なようだ。そして、耳が遠くなり、会話がほとんど通じなくなった。
 あの時代にしては珍しく一人っ子だったおふくろだから、お姫様育ちで跡を取り、婿で入った亡き親父も、おふくろの女王様ぶりには随分苦労したようである。そうしたことから、家の中のことは自分の好き放題で何事も進めようとするのであり、息子の小生がやろうとすることにも一々口を挟み、自分の気に入る方向へ持って行かそうとする。
 また、料理嫌いであるから、女房が届けるおかずなどで全てをまかない、味噌汁は作らないし、お茶とて入れない。
 最近は、ますます横着になり、庭先にある畑での野菜作りは面倒だからと、ほとんど何もしなくなった。野菜作りを止めてしまってはボケる元だから、あれこれ画策して農作業をやらせようとしても腰を上げることはまずない。
 こうしたことについては、3か月前にも書いた。

 さて、昨年の夏野菜の作付けについては、おふくろはどれだけか働いた。頼みはしなかったが、中途半端な数のオクラのポット苗、多すぎる数のゴーヤのポット苗を作って、お隣さんのハウスで育苗してもらっていた。そして、小生が頼んだ十六豆の種蒔きをちゃんとやってくれた。また、白ナスの幼苗をポット詰めする作業を1時間も手伝ってくれた。
 一方、まだらボケが出て、余計な仕事もした。キュウリの苗をお隣さんからいただき、それが定植してあるのに、別の畝にキュウリの種蒔きをする。例年、第2弾を直播きするのだが、その時期が早すぎる。両方が頭の中でごっちゃになっていたようだ。また、紫ナスが1畝、同様にして定植してあるのだが、苗が植わってないと言って、お隣さんから苗をもらってくるではないか。これは、完全にボケだ。
 もう一つ余計な仕事をした。前の年もそうであったが、6月に使う予定で畝に立て札も立ててあるのに、畝が空いているからと言って、白ナスの苗を植え付けるのである。自宅前の畑は立地条件が悪くて、毎年、白ナスはほとんど収穫できず、別の畑でタップリ栽培しているから、ここでは白ナスは作付けしない、と言ってあっても、立て札を無視して植えつけてしまうのだ。それが昨年は2回繰り返した。苗は必要な分の10倍も作ってあり、あちこちに差し上げる分を使うのだから、いくらでもあり、その度に引っこ抜いて処分した。2度あることは3度あるのであり、まだ取りに来ていない方に督促して取りに来てもらい、早々に在庫をゼロにしたところである。
 このように、思いつきで農作業も好きなことだけを気紛れ的にするだけであり、口うるさく言うと、“わしの好きなようにさせてくれりゃええやないか”との返事が返ってくる。

 さて、さて、今年の夏野菜の作付けについて、おふくろがどれだけやってくれるか。今年は、自主的なオクラやゴーヤのポット苗づくりはやっていない。これは後日おふくろに頼もうと考えている。
 今、おふくろにやってほしいのは、十六豆のポット苗づくりだ。例年、第1弾はお隣さんのハウスで、おふくろが作ったポット苗を育苗してもらっていたが、お隣さん老夫婦も体力的限界に近づいており、なるべく負担を掛けないようにせねばならない。よって、十六豆は急ぐことはないから、昨年は、今頃に、初めて第1弾を路地蒔きすることにした。しかし、なかなかうまく発芽しなかったので、何度も追加で種を埋め込むなどドタバタさせられたから、今年は管理しやすいようにポット苗づくりに変更したのである。
 そこで、それをメモし、ポット苗作りに必要ななものを全部揃えて1箇所に置き、ポット苗作りを3日前におふくろに頼み、毎日督促してきたのだが、いまだに行おうとはしない。昨日、女房がおかずを届けに行ったときには“和君(小生をそう呼ぶ)がポット苗を作るそうや”と言うし、今日、小生がメモを見せて“どうするんや”と問えば、“畑に種蒔きするのか”と返事する。
 ふざけるな!である。
 “もうええ!”と大声で言って、おふくろが手にしているメモを奪い取ってクシャクシャにし、“俺がやる!”と言い放った次第。
 ポット詰め作業は準備が整っており、5分で終了。
 なんとも横着なおふくろであり、このぶんだとオクラやゴーヤのポット苗づくりもやろうとしないかもしれない。十六豆と同様に“腹たち”を起こされそうな予感がし、自分でやってしまったほうが手っ取り早いのだが…

4.2 学問の世界はどうしてここまで堕落したのか、理研までが… [事件]

 理研と言えばスゴイ頭脳集団。20年以上前のことであるが、小生も仕事上で、理研の大御所に講演依頼に行ったとき、その凄さに驚かされた。
 今般、理研の小保方女史グループが中心となって、いわばトンデモナイ論文を発表し、学者どもはタジタジとなった。ビックラ仰天したからであろう。
 こうなると、小心者の学者どもは、重箱の隅を突いて足を引っ張りだす。
 それが結果、昨日の理研が発表した、盗用だの捏造だのという「悪意」に満ちた内容となって現れた。
 理研も落ちたものである。あのスゴイ頭脳集団も上層部は皆、小心者に成り下がっているのだから。
 あの発表は4月1日だったから、エイプリルフールであってほしかった。

 そもそも新発見の論文なるものは、多少の間違いがあることはまま有りそうだ。
 もし、その間違いに誰かが気づいたら、それをホローしてやって、より正しいものに修正してやるのが本来の学問というものだろう。
 それがどうだ。これは古今東西に共通することだが、大発見というものは、まずは必ず叩かれるものだ。過去に幾例もある。
 アインシュタインの特殊相対性理論だってそうであった。研究者でもない無名の輩がトンデモナイ論文を発表したものだから、小心者の学者どもによってケチョンケチョンに叩かれた。
 しかし、居るものである。名の知れた大物の学者が一人その理論を支持してくれ、しばらくしてアインシュタインの理論は高く評価されるようになったのである。
 もし、そうした理解者がいなかったら、いまだ特殊相対性理論は日の目を見ず、永久に埋もれたままになっていることであろう。
 
 よって、理研上層部が記者会見するとなれば、ノウハウをさらけ出して再現実験を広く呼び掛け、より良いSTAP細胞ができる方向へ持っていくべきだ。
 それが学問というものだ。
 しかし、この世の中、単に小心者であってくれればまだしも、ウソの学問をさも正しいように言いふらす御用学者がわんさといるのだから、恐れ入る。
 彼ら、銭という麻薬に冒された者たちはどうしようもない。
 理研上層部も何やらそんな臭いがする。
 これじゃ、やってられない。

 久し振りに腹立たしい出来事があったので、ブログを叩いた。